韓国人の友人と議論してまとめたくなった「negotiate」、「交渉」の定義の範囲
Gotland Nation というところで韓国人の友人とお昼を食べていた時の話。
友人「くろね、君の専門について話をしてくれ」
何を話せば良いのか若干まよまよと考えこんだあと、やっぱり交渉の話かな、と、彼に交渉についてのお話をしたのです。
友人「ん?それはディベートじゃないのか?」
彼曰く(「おそらく韓国人一般の認識に近いと思う」とのことだった)、
ネゴシエーション(協商、交渉)。どちらかというと「相手に自分の意見をぶつけて従わせる」のニュアンス。
ディベート(討論)。それぞれが自分の意見を投げ、まとめて問題解決につなげる、のニュアンス。問題の解決方法。
ネゴシエーションとディベートの認識が、私のそれと真逆だったのです。
ディベートについてのお話はまたの機会に譲るとして(ただディベートは私の専門ではないからその機会は来ないかも)、
本日は私の大好きな交渉、その定義のお話をさせていただきましょう。
私が交渉を定義する時には、いつも以下のような説明を用いる事にしています。
まず、手元にあるジーニアスの英和辞典で、「negotiate」を引いてみましょう。
negotiate
自動詞:
〈人が〉〔人と/…のことで〕交渉する、協議する
〈業務・取引など〉を処理する
〔…することを〕(交渉して)決める
他動詞:
(交渉・協議などによって)〈条約・契約など〉を〔人と〕取り決める、協定する
(一部省略してあります)
この「negotiate」の意味を考えると、いくつか面白い事実が見えてきます。
まず、当たり前の事ではありますが、自動詞としての「negotiate」には「交渉する」という意味が含まれています。
また、〈人が〉という限定がされていることから、「negotiate」は人による交渉、というものを想定した言葉である事もわかります。
ここまでは非常にシンプルです。私たちが普段抱く「交渉」への印象と何も変わるものではありません。
では、他の「negotiate」の意味に目を向けるとどうでしょうか。
「処理する」や「取り決める」という言葉は、「交渉」そのものに含まれるかというと少し怪しい気もします。
私たちが「negotiate」をする際に、いつも「処理」したり「取り決め」たりしているかと言われれば、それは少々微妙な感じもするからです。
単に「お願い」したり、「譲歩」を要求するだけ、一方的なコミュニュケーションを用いる事も少なくありません。
けれども、疑問に思っても、確かに「negotiate」の訳語には「処理する」「取り決める」が含まれている、この事実を見逃すわけにはいきません。
では、ここでもう一度考えてみましょう。「交渉」という言葉、その定義が含む範囲はどこまで及ぶのでしょうか?
ここからが私の考える「交渉」の定義です。
交渉とは、「個人間の利害の衝突や、情報の不一致から生じる問題を解決するという目的を達成するための手段」であると考えています。
「negotiate」という単語の意味に「問題の処理、解決」が含まれるのであれば、それは当然交渉の定義にも織り込まれるべきでしょう。
そして、「問題の処理、解決」は交渉という文脈において、「目的」という位置づけをされています。
交渉を用いて、それらを達成することを考えます。
となれば、もちろん交渉は「手段」となります。
心に留めておいていただきたいのは、手段としての交渉という概念は、交渉の目的と切っても切れない関係にあるという事です。
目的を考えなければ正しく手段としての交渉を行う事はできません。値札を見ずに値切りを始めて、元の値段よりも安く買えることは皆無でしょう。
言い換えれば、交渉を考える際には常に目的を考える必要があり、それが手段を考える事にもつながるのです。
ついでにもう一つ。
あくまで交渉の目的は「利害の衝突や情報の不一致から生じる問題を解決する」ことであり、「自分の目的を達成する」ことではありません。
もちろん、問題の発生原因を解消するためには、自分の目的を達成する事はもちろん必要です。
ただし、自分の目的を達成するだけでは、必ずしも問題を解決する事につながらない事が多いのです。
したがって、「交渉において自分の目的を達成する」ことを第一に考えるのは、誤りであるとわかります。
(この辺りについてはもう少し詳しく別の機会に書きたいと思っています)
ざっくりまとめるとこんな感じでしょうか。
もう少し丁寧に書いた、バージョンの古い定義もあるので、近い内にコピペして持ってくるつもりです。
あるいはもっと定義をしっかりするかもしれないですね。追記しそうな記事です。
Uppsalaの日曜日。
日曜日をたっぷりぷらぷらとのんびり過ごしてきました。
Uppsala大学のMain Building。
京大でいう「吉田キャンパス」や「北部キャンパス」といった概念はなくて、街中にぽんと大学の建物がある感じ。
私が所属しているDepartment of Government の授業はここで行われることも多くて、週一回は訪れている感じ。
地下に喫茶店があって、コーヒーが美味しい。ただ一杯15kr(250円くらい)は少々高めな気も。
あいにく雪も太陽もないので少し暗い。
私がいつも利用しているバス。通称「2番」。
Uppsalaのバスは1ヶ月定期券が大体5000~6000円で、市内乗り放題。非常にお得。
「最初に定期買わずに自転車を10000円で買うぜ!俺最高!」と言っていた友人は大雪の日に転んで定期券を買ったらしい。
日曜日といえば、ということでお気に入りのカフェへ。
カカオの味がしっかりしているチョコレートケーキ。少々甘すぎる気はしたものの美味しかった。
唇が荒れ気味だったので熱いコーヒーを避けたんだけど、きっとコーヒーとよくあうケーキだった気がする。
おまけ。自宅の地下にあるレストラン。
お客さんをファイヤーしてそう。
はじめまして。
ブログを書くのは何年ぶりでしょうか。
インターネットに始めて触れた10数年前は、毎日のように何かをネットに書き殴っていたものなんですが。
いつの間にか、文章を書く習慣がなくなって、文章を触ることすらなくなってしまいました。
久しぶりにキーボードを叩いて文章を書いていると、どうして、私は文章を書くのをやめてしまったんだろう、と考え始めてしまいます。
きっと、きっかけがたくさんあったのだと思います。
受験勉強が忙しくなった。自分よりもっとすばらしい文章を書く人たちに出会った。伝えたい事ができても、Twitterで十分じゃないかと思った(あるいは、思い込んでしまった)。
そんないくつものきっかけが、互いにぶつかりあってぐちゃぐちゃになって訳が分からなくなって、私は文章を書くのをやめた、書かなくなったのではないか、と思っています。
ただ、文章を書かなくなったからといって、書くべきこと、書きたいことまで消えてしまう訳ではありません。
文章を書かなくなってから、私の中には、細々とした、表現欲、あるいは筆欲といいますか、そういうものがぽつぽつと溜まっていくのを感じていました。
そしてそれがついに抑えられなくなってしまった、ぽつぽつと溜まった欲の一滴が積もって、大きな桶から溢れ出してしまったのです。
私は今、スウェーデンのウプサラ大学に留学しています。
留学生活では、日々たくさんの新たな出会いと、そこから生じる数えきれないくらい多くの思考に直面します。
はじめは、それを一つ一つ消化していけると思っていました。
ここでいう消化とは、一つ一つの出会い、思考について、自分の中にぽとりと落とし込み、自分に結びつけることです。
この消化は容易いことだと考えていました。が、できなかった。
新たな出会いも、思考も、すぐに消化するにはあまりにも飲み込みづらいといいますか、食べ応えがあるといいますか、そういうものでした。
となると、消化できないそれらを放置することになります。放置すると腐ります。脳みそは利口ですから、腐ったものはどこか遠くに消えていきます。
これはあまりにもったいない、と思ったのが、ブログに帰ってくることになった理由です。
そしてこの「もったいない」こそが、自分が、自分自身から表現欲が溢れ出していることに気づいた証なのではないか、と思ったのです。
私は、大して面白い才能を抱えているわけではありませんし、ありふれたことをおもしろおかしく伝える表現力に恵まれているわけでもありません。
それでもまだ、往生際悪く、何かを伝えたい、伝えなければならない。
そんな風に感じたわけで、私は今日から、気が向いた時には、文章を書きます。
いつまで続くのか、自分でも少し楽しみです。