風邪を引いた。
ビックリするぐらい「どうしてこの時期に!?」って時期に風邪を引いた。
黄金週間第一陣、「さぁちょっと五月の予定立てちゃおうかな」っていう日に風邪を引いた。
風邪を引くと
- 気分が悪い
- 勉強も運動もできない
- 大量に時間「だけ」得られる
時間だけ得られてもあまり喜ばしいことはない。
机に向かっただけでクラクラ来るし、布団に入ってもゼハゼハが止まらない。
こんな時はYouTubeでも見て時間をサラサラ流そうかと思うけれど、
残念、あいにく気分が乗ってくれない。たまにくる頭痛ヒトツキでやる気を無くしてしまう
(YouTubeを見るやる気、というものが存在することを私は初めて知った。)
試験前なのに全く勉強ができない一日だった。
昨日も合わせれば二日だった。
猛烈につまらない。
やることがたくさんあるのは幸せなことだ。
幸せなことをやり遂げられるだけの体調があるのは幸せなことだ。
知らないことを学ぶのが好きだ。
有斐閣アルマあたりの本で知らない知識を得るのが好きだ。
ずっとこうしていたいと思う自分が居る一方で、
きっと数年後の自分はこうしていたくないだろうなぁと思う自分が居る。
そのあたりのズレをいかにして解決しようかと悶々考えている。
全力で物事に取り組みたい。
それだけだから、そうなるように進んで行きたい。
火星の生活
David Bowie - Life On Mars? - YouTube
ウプサラ時代、一時期やることが無さ過ぎて、映画館に通うことが趣味だった時期があって
なんかの映画の主題歌がDavid Bowieの「Space Oddity」だった。
それがきっかけてBowieを聞き始めて、後にこの曲と出会った。
「なんでスウェーデンまで行ってBowieなんだよ」という無粋な突っ込みは要らない。
とにかく私は、ウプサラに滞在していた時に、もう猿みたいに、この曲を聞いた、そういうことなのである。
この曲を通じて思い出されるウプサラは少々美化されすぎている。
ベッドの上でこの曲を聞いていた時、心は寂しさ、あるいはホームシックで塗りつぶされていたはずなのに、
今聞いてみると「あの頃に戻りたいなぁ」とまで思っている自分に気付く。
いつだって過去が愛おしい。
クソみたいな中学時代、苦しかった高校時代ですら、なんとも愛おしく感じる瞬間がある。
とすれば一番輝いてるのは現在か。その輝きは今の時点でよくわからなかったりはするんだけれども。
どうでも良いけど邦題の「火星の生活」、最高にロックだよね
クソみたいな無気力、それでも継続すること
お久しぶりです。
例年この時期はやる気がすぅぉんと抜けて、文字通り抜け殻状態になる。五月病の酷い奴だ。
それに今年は留学先の環境(日照時間が長い)のせいで、不眠まで一緒にやってくる始末。
辛い辛い自慢はあまり好きではないが、最近は5時間近くしか眠れず、起きたとしても昼頃まで立ち上がれず、挙げ句の果てに読書が出来ない(文字がぶれる)。辛い。
非常に、しんどい。
それでも毎日やり続けていることがある。
暗記用アプリ、Ankiを用いた英単語の学習だ。
毎日20~25の単語を新しく勉強し、200~300の単語を復習する。
日によっては、その日に学習した単語を、新しくAnkiのデータベースに入力する事もある。
大体、20~30分ほどの作業。
これを、スウェーデンに来た数日後から、毎日毎日、積み上げて来たわけである。
「英語は単語力で殴れ」。
英語における単語の重要さは既に色んな人が語っているので、ここでは触れない。
何のやる気がなくとも、タブレットを20~30分、ぽちぽち叩き続ける事ぐらいは出来る。
そして案外、そういった小さな積み重ねが、海の底に沈もうとするメンタルを救ってくれることが多くある。
「どうして私は何も出来ないのか」→「いや、単語の勉強くらいは出来る」
「やる気が出ない、つらい」→「やる気が出なくても出来る簡単な事をすれば良い」
はっきり言って、私は別に英語の勉強に燃えているわけではない。
確かに、将来的に英語は必要だろうし、ある年齢までにこれだけ話せるようになりたい、という目標はある。
(ただ、最近は今こそその「将来」になりつつあるという実感もある)
しかし、語学の勉強というものには、どうしても肌に合わない部分がある。
私にとっては、楽しくやれる類のものではない。
では、どうしてそんな私が、毎日数十分の学習をコツコツ積み重ねるのか。
一言で表すと、それは言い訳である。
英語でいうexcuseのニュアンスに近い。
私は何もしてないよ、ということを否定するために、コツコツ積み重ねている。
継続を止めた瞬間に、罪悪感がコツコツとやってきて、コンコンと不安の扉をノックする、そんな予感がしている。
「毎日コツコツ勉強する」という言葉は、積極的な意味のみを帯びる必要は無い。
それはexcuseでも良い。
「毎日コツコツ勉強する」ことによって、私は、少しの平穏を得ている。
積み重ねの結果、専門書を読んでいて、わかる単語が増えてくる。
ここでは、英語の積み重ねが、自分に対するexcuseでなっていく。少し、うれしい。
揺れろ脳味噌
ウプサラがいつの間にかイースター休暇に襲われている。
最近は授業も出ずもっぱら図書館籠もりなので気づかなかった。
私はパーティが苦手だ。
酒と女とセックスの話しか出来ない奴らをクソ野郎だと思う。
(しか、が重要だ。その話題自体は私も大好きだ)
揺れろ脳味噌。
プルプルプルル。
春のウプサラは良い。
日差しが強くて空気がさらさらして心地よい。
環境だけ京都に持って帰りたい気分だ。
揺れろ脳味噌。
ブルブルルブル。
揺れた。
文章執筆へのモチベーションと情報収集の気怠さの話
書きたいテーマは沢山あるんだけど、下手に事実確認の重要性を認識してしまったせいで、バンバン文章書く事が出来てないなぁ、という話。
とりあえず今のところ興味があるテーマを羅列
○まっさらの一次情報を伝えるウェブメディア。クリミア問題での報道がウクライナ側に寄りすぎている印象が受けて。あとフランスのマンガイベントでの情報の錯綜とか調べて面白かったので。
○睦奥宗光。日本史上おそらく最強の交渉人の一人。交渉の観点から彼の外交姿勢を見てみたい。
○プログラミングの普遍性。私自身は全くプログラミングが出来ない人なんですけど、父の「言語の進化にはついていけないが、プログラミングを扱う仕事にはいつまでも携われると思う」という言葉を受けて。
○Mindset。現在注文中。
○改良版交渉ワークショップ。6月の帰国までにはもう一度構成し直したい。
○韓国の兵役事情。韓国人留学生の兵役経験がとても興味深かった。
○デッドロックに陥った対立関係の解決方法(多分例示。)。いくつか案はあるんだけどまだまだ情報が不十分な感じがする。
こんな感じかしら。収集収集。
あなたの隣に
祖父母から段ボール一箱の荷物が届いた。中には大量のインスタント食品が詰め込まれていて、食品棚に置いてあるそれらと合わせれば、一ヶ月は持つんじゃないかというほどの量だった。美味しそうなインスタントみそ汁の封を開け、お湯を沸かし、椀に具とみそとお湯をそそぐ。お箸は無いのでフォークでかきまぜる。久々に嗅いだ味噌の香りが、はなをつたって目の辺りにまでしみ込む感じがする。日本を感じた。
そこで、突然、死んでも良いという感覚が来た。
ナチュラルに襲ってきたその感覚を必死で振り払って、落ち着いてみそ汁を口に含んだ。多分、日本のみそ汁を飲んで、普段の緊張した生活から離れて安心、リラックス出来た瞬間に、ふとそのようなことを考えたのかもしれない。頭の中に存在しているとは思わない言葉がふわっと流れていた。リラックスとは恐ろしい。気が緩むということは、なんでも受け入れられるということにきわめて近いのではないか。いつも死についてまとうおどろおどろしい気持ち悪さは無く、飲みやすい粉薬のようにさらさらと思考が流れた。いや、あれは思考ではなく感覚だ。考えてはいなかった。けれども突然、感覚はやって来た。抵抗した。だが、仮に抵抗出来なかったらどうなったのだろう?
人間はいつ死ぬかどうか分からない。この一文は、普通不慮の事故、不幸な病を想定したものだろう。いわば物理的な死だ。精神的な死はどうなのか。ふとしたきっかけで、心が死んでしまうことだってあるのではないか。それはみそ汁を飲むという本当に何気ない所作から生まれる(死が生まれる、というのは皮肉なことだけど)ことだってあるのかもしれない。人間はいつ死ぬか分からない。そして私たちの心は次の瞬間に終わりを迎えようとするかもしれない。その時、果たして抵抗出来るのだろうか。心が抵抗出来なければ、身体は抵抗出来るのだろうか?
こういうのも臨死体験に含まれるのだろうか。
みそ汁を飲み込む。喉仏の少し上をさすられた感じがする。それと殆ど同じ瞬間に、みその味が来た。
雪の中の幻覚
前の日記でも書いた、スウェーデンの極北、キルナでの滞在一日目、オーロラハンティングに出かけていた時のこと。
オーロラの英語表記はauroraだが、スカンジナビアで出会った人々の多くにこの言葉は通じなかった。
彼ら、彼女らはオーロラを指してnothern lightsと呼ぶ。
このnorthern lightsに、北の光というなんともそのままな訳語を当てると、オーロラを探す際には、とりあえず北を見てみよう、という目標が浮かぶ。
実際私もそうした。
なるべく市街地の光が当たらない、真っ暗な場所を探し、ひたすら北の方向に向けてカメラを構える。
それがオーロラハンティングの基本だ。
キルナ1日目の夜は、幸いなことに雲も少なく、夜空には綺麗な星がちりばめられていた。
私がキルナに到着したのは夕方で、もちろん昼間に下見をすることなどできていない。
手探りで観察拠点を探すことになった。
地図を見て、宿から最低3キロほど歩けば、どうやら明かりが少ない場所に着くようだ、という目測をたてる。
極寒のキルナ、ガイドもつかない個人撮影ともなると、やはり命の危険が伴う。
リュックサックに荷物を詰める。水、食料、使い捨てのカイロ。三脚。
全部詰めると大体5キロほどになった。
それを背負って、雪が積もった道をひたすら歩く。
しばらくの間は、雪が踏みしめられてできた、大きな道があった。
昼間に誰かが通った道なのだろう。
「誰かが通った」という安心感は大きい。「ここは踏んでも沈まない」という保証を与えてくれるからだ。
そうやって20分も歩いているうちに、ついに足跡が途切れ始める。道が小さくなる。
しかし、まだ市街地からの光が強い。
街の光は、夜道を歩く上では心強いが、オーロラを観察するためには邪魔者でしかない。
普段は意識しないが、街灯や家の灯りというものの明るさは大変強く、少し離れた程度で変わるものではない。
そしてその明かりがそのままオーロラを覆い隠してしまうのだ。
オーロラ観察に際しての光を指して、「光害」と呼ぶこともあるらしいから、相当なものだ。
光害を避けるために、ひたすら光から逃れられる場所を探す。となると、必然的に人里から離れていくことになる。
足跡が途切れていく。
道が無くなる。道が無くなった。
ここを拠点にするか、と一瞬考えた。
ただ、まだ北の方向の明かりが消えきっていない。
その時私が立っていた場所はある小さな丘の近くだった。
丘の地形を利用すれば、なんとかあの明かりを隠せるかもしれない。と考えた。
しかし、自分が今立っている場所は非常に不安定な場所だった。
雪道で、まだ誰も踏みしめていない場所に足を運ぶとどうなるか。
簡単な話で、ずぼずぼ、と沈むかもしれない。
もしかしたら、今から踏み出すその場所で、雪が高く積もっていて、数十センチもの深さまで沈み込んでしまうことだってあるかもしれない。
どうしようか、と考える。
休憩がてらポケットからスニッカーズを取り出す。
氷点下の世界で齧ったスニッカーズはまるで氷のようだった。それでも寒いところで食べる甘いものは、何ともいえない幸福感が伴う。
少し幸せになったので、気分が高揚した。
頑張ろう。
最高のポジションでオーロラが見たいと思い、明かりの無い場所を目指して歩き始める。
さらに20分ほど歩いたところで、遂に明かりが無くなった。
手元を照らすのは月の明かりのみ。ちらほらと雲が見えた。あれが月を隠したら困るな、と思った。
気温は−10℃を下回るか、といったところ。
丘の傾斜面だったからか、絶えず丘を超えて吹く強風に晒されていた。
左手の感覚が少しずつ無くなるのを感じていた。使い捨てカイロも、焼け石に水程度の効果しかない。
戻るための体力を考えると、観察のために長居出来ないであろうこともわかっていた。
震える手で、携帯のタイマーをセットする。
三脚を構えて、ひたすら、オーロラを待つ。
寒すぎて、頭の中でぐるぐるといろんな思考が駆け巡った。
とりとめのないものばかりで、ふらふらほつほつと流れては消える、希望だとか絶望だとかそういうものがたくさんふらっとほろっと回っていた。
印象的だったのは、色々な悩み事が、誰一人居ない、ただただ漂う寒さの中では凄くシンプルに思えたことだった。
シンプルになった問題がそこらへんの積もった雪にぶち当たって、そこら一帯の雪が弾け飛ぶ音がした。
風がびゅーびゅー吹いていて、そこで刺さるように聞こえてきた、雪の爆発する音。
実際には、存在しなかった音なのだろうけれども、そのぽつん、ぼふんという爆発音がいやに印象的で、今でも頭に残っている。
(考えてみると、−10℃の極寒の中で一人、カメラを構えてひたすらじっとしているというのは、色々と危ない。よく無事だったものだと思う)
うおんうおんとよくわからなかったんだけども、頭を構成する要素が弾け飛んで、様々に散らばって、それで終わりかと思ったら、そこからまた散らばって、ぽんぱばどん!とポップコーンのように跳ねていく。
物事の細分化。ある意味、これが自分の思考の本質なのかなあ、などと考えて、カメラを構えていた。待つこと数十分。
出た!!!
声がかれるほど大きな声で叫んだ。その声は風でかき消された。
一通り撮影して満足したところで、荷物を抱え、歩いて帰った。不思議と疲れは無かった。
ただ、思い返してみると、素人であるにもかかわらず、実に危険な環境に足を踏み入れてしまったと思う(実際、爆発の感覚というのは一種の幻覚だろう)。
今後は気をつけよう、と思った。ただ、きっと気をつけられないのだろう、とも思う。